水疱瘡の思い出

りららちゃんのキス」に拍手コメントをくださり、ありがとうございます。

母乳の免疫力があるはずなのに感染症を発症するのはおかしい、と捉えるか、母乳の免疫力のおかげでこれくらいで済んでよかった、と捉えるかは、人それぞれかもしれませんが、水疱瘡は、幼いうちに済ませるのがぜったいにいいです。

新生児でいきなり、というのは、それはそれでお疲れ様でございますではあるのですけれど、成人してからの水疱瘡は、ただことではない状態になって、いやはや、です。

大人の体表面積は子どもに比べると広いせいもあるのでしょうが、できる水疱が巨大で数も多くて、結果当然できあがるかさぶたも大きく多く、見た目のぎょっとする加減が、いかんともしがたいかんじなのです。

夫と義妹(夫の妹)は、幼少のころに水疱瘡にかからなかったらしく、義妹は、夫と私の結婚式数日前に水疱瘡を発症したため、結婚式にも披露宴にも出席できなくなりました。義妹本人としては、この機会に振袖を着ようとレンタルして準備していたのに、着れなくなって、本人も義両親も残念がっていました。でも、その振袖は、義妹と年の近い従妹に着てもらえたので、ちゃんと活躍はしたのですが、めでたいはずの日に寝込むしかないのは、広島弁でいうところの「さえん(冴えない、ぱっとしない)」気持ちだったことだろうなあ、と、あの日の義妹を思い出します。

夫は、三十代前半のある日、水疱瘡を発症しました。派手な水疱と高熱と全身のつらさとで、実際以上に弱っていました。夫は痛みや体の不調にあんまり縁がないためか、たまに不調になると、必要以上に衰弱します。夫の水疱瘡は、ビジュアル的にも派手だったため、鏡を見てはぐったり、自分の腕やお腹を見てはぐったり、としていました。

当時のことを思い出す時、夫は必ず「あのときはプリンしか食べられなかった」と語ります。高熱で口腔粘膜も炎症をおこしていて、他のものは痛くて重くて食べられなかったのだそうです。

熱が下がり、水泡も乾いて、「かさぶたが全部はがれるまでには、少し時間がかかりますが、もう普通に生活していいですよ」と医師から診断をもらい、夫は翌日から元気に出勤しました。が、いつもなら超満員の通勤電車の中で(当時は大阪在住で電車通勤だったのです)、夫の周りには直径一メートルくらいの円状に人のいない空間ができて、人と押しあいへしあいしなくて済んで快適だったけど、なんでだろう、と考えてから、あ、そうか、と、あらためて自分の見た目の壮絶さを得心したと話していました。

夫の顔や体には、未だに、水泡痕の陥没部分が何ヶ所か残っています。

小さな水疱瘡患者さんも、大きな水疱瘡患者さんも、無事に回復して、大きくなってよかったなあ。