感動の連鎖

「埋まらない夫婦の溝」に拍手コメントをありがとうございます。

お互い、相変わらず、いい溝が健在のようで、なによりです。

夫さんは、ときどき、もしくは頻繁に、不思議な日本語用法や解釈を披露してくださいますよねえ。人さまの夫に対して失礼にもほどがあるだろう、と自分でも思うのですけれど、それでも、夫さんのことを「日本語がすごく上手な外国からの留学生みたい」と言った私の表現は、あながち間違っていないよね、と何度でも思えるあたりが、恐れ入るところであります。

私が昔、夫さんの食べっぷりにほれぼれとして、「素敵だ。ずっと眺めていたい」とつぶやいたことがあるのですが、なぜかそれが彼の中では、「俺のとりえは、ようけい食べることだけやからな、いうて、前にみそさんが言うてたからな、俺はずっときちんと食べなあかん思うねん」という解釈になっていて、その後も一緒に食事をする機会があるごとに、その誤解を誤解のまま披露してくださり、私は毎回誤解を正そうと一応努力はするのですけれど、なんとなく、それはそのままでもいいかあ、それが彼の食の意欲として、ときに原動力になる部分があるのなら、それはそれでいいじゃんねえ、と思うようになりました。

そんな夫さんとの「日本語表現理解に対する興味」を夫婦として分かち合おうなどという途方もない野望を、ゆうるりとはいえ、追い求め続ける様子を拝見していると、夫婦の縁(えにし)というのは、なんだか、ただことではないのだなあ、という気分になってきます。

夫さんが妻に対して、「おお。君がずっと言っていたのは、なるほどこういうことだったのか」と、合点する感動を得て、その様子に妻がまた感動する、という感動の連鎖がたのしみです。「感動の連鎖」だなんて、我ながら、めでたい感じの上手な表現を思いついたな、また使おうと、にんまりしつつ。