自主独立のお買いもの

「蜜柑狩りの洗脳」に拍手コメントをくださりありがとうございます。

実は同僚がかつて購入した補正下着の金額は、十二万円ではなくて二十万円だと言っていたような気がちらちらとするのですが、せめてみそ文に書く金額だけでも八万円少なくしてあげてもいいよね、という謎の葛藤が私の中であり、そのままにしています。

買い物において重要なのは、自分の経済状況や金銭感覚の範囲内での満足感、のような気がしています。

ということは、売る側において大切なのは、お客様に何かを売りつけて大きな金額を得ることよりも、買う人の「買うもの」と「それに伴う満足感」を、売る側買う側双方にとっての適切な金額で提供することなのではないかなあ、と思えます。

十数万円や数十万円やそれ以上の購入があれば、たとえば店員さんであれば、その人の一か月分のお給料の何割か、場合によっては全額かそれ以上、確保したことになるのかもしれませんが、買った人が買ったことに伴う「よろこび」ではなくて、「自分が誰かのカモになった感」やその残念さや悔しさを抱えて帰ってゆく、という形は、商いとしての美しさが成り立っていないといいますか、満足を提供したいはずの商売で不満足を与えている、という不本意な結果のような気がするのです。

「断るのが得意じゃない」人のその心情を利用するようなつけこむような商いのやり方は、買う側の自尊心が傷つく場合もあるでしょうし、まわりまわって、巡り巡って、売る側の商人としての自尊心も実はエネルギーとして損なう側面があるように思うのです。

目に見える物品を買う場合も、目に見えないサービスを買う場合も、買う側と売る側が、それぞれに「自主独立」した状態であることが、商いにおける快適なエネルギー循環の「鍵」なのかなあ。

自分の経済力やそのときの金銭感覚や予定していた予算や心づもりしていた金額などを超えたローンを組むというのは、自分の「自主独立」を侵す事態なのではないだろうか。

ローンを組んで払って払えないことはないけれど、自らが「ローンを組んででも手に入れたい」と思ってそうしたか、「断れなくて仕方なくローンを組んだ」かでは、満足感も安心感も大きく異なるのだろうなあ。

あ、そういえば、少し前に、海鮮商品を扱う観光ショッピングセンターのような場所に赴いたときに、そこでは鯖寿司や焼き鯖寿司を力を入れて売っていて、試食も提供されているのですが、通りすがりにちょうど開けたて切りたての焼き鯖寿司を試食トレイにのせて提供していたお店で試食をして、「あ、おいしい、ごちそうさまでした」と手を合わせて、他にもまだ一通り見たい場所があったのでいったん立ち去ったのですが、その試食を提供していた鯖寿司屋の売り手さん(やや年輩の男性)が、「おいしい、って、そんなんおいしいに決まってるやろ。買わんのんなら食べんといてほしいわ」とつぶやかれたんですね。あのときにも、あああ、せっかくのおいしい鯖寿司の商いを、そんな一言で残念なことにするなんてもったいないなあ、と思ったことを思い出しました。「またあとで寄ってなあ」というつぶやきや声かけであれば、またあとで買いに来ようとも思うでしょうが、「買わんのんなら食べんといてほしいわ」では、私の「試食」という言葉の定義根本からくつがえされるような、買い物や旅の楽しさを損なう効果はありました。けれども、私の楽しさやおいしさはそんなことではひるまないので、「ああ、おっちゃん、子どもを大学にやるのに、仕送り、たいへんやねんな。がんばりや。でも、おっちゃんの今みたいな在り方は、子どもの教育上望ましい形かどうかは、よう考えたほうがええと思うで」というにせもの関西弁での脳内上から目線で、十分に、世界平和を保つあたりが、私のえらいところだと思います。

それにしても、そのあと、お腹がすいて、私は、餡ドーナツとクリームドーナツが食べたくてそれを買って車の中で食べてお昼ご飯にしたのですが、夫は、「焼き鯖寿司が食べたい」ということで、一人で何軒か見て回り、結局、その中で最も安い値段に値引きしてくれたから、と、その「買わんのんなら食べんといてほしいわ」のお店のその人から買ってきて食べていたのには感心しました。夫は私が思う以上に「剛の者」なのかもしれません。

なにやら長々と、思うままにつらつら書きましたけれど、買い物は、買い物の前も最中(さいちゅう)も後も、気持ち良くしたいよね、というお話なのでした。

しかし、と、さらに続けますが、もしかすると、人によっては、「何言ってるの。騙すかだまされるかのハラハラドキドキと、してやった感やウンザリ感やガッカリ感こそ、買い物の醍醐味ではないか」という主義主張の方もいらっしゃるかもしれません。そういう人はそういう人同士での商い循環を成立させてもらって、「お買い物や商いで重要なのは、よろこび、よね」というようなタイプの人間はそういう価値観の人同士で商いエネルギーを循環させていきたものです。