推理小説と夫婦関係

「推理の流れを推理する」に拍手とコメントをありがとうございます。

この記事を書いた後で、芋づる式にあれこれと思い出しまして、そういえば、夫は、マンションの同じ階の空室の部屋の前に、夜暗い時間帯に、住人でも大家さんでも見学者でも新聞屋さんでもない出で立ちの人物がいたときに、わたしが「ああいう人を不審人物と言うのかしらね」と言ったら、「え? 誰かいたか? 誰も何も見えなかったけど。みそきちどんさん、また夢でも見たんじゃない? それか、死者と語って事件解決するドラマの見過ぎで幽霊見てるとか」と言いました。我が家の治安と防犯を彼に頼るのはやはりやめよう、と、決意を新たにした瞬間でした。

そして、さらに、そういえば、わたしが体調を崩すあるいは突然の怪我をするなどで、家庭内で倒れたりうずくまったりしていても、夫はそう簡単にはそのことに気づきません。わたしが声を大にして積極的に救援を要請するとようやく来てくれるのですが、そのたびに自分の老後の(老後に限らず現在もですが)安否確認や早急な救援活動をこの人に期待するのは難しいのかも、と、身の引き締まる思いになります。

最近日本のテレビでは、震災後、一般のCMがかなりの自粛傾向にあり、AC(旧公共広告機構)のCMが中心に放映されています。その中で、元サッカー日本代表の監督であるオシムさんが「スピードが命なんだ」と話される広告があります。サッカーでも脳梗塞の初期症状でも、素早く適切な対処を行うことがその後のよき結果につながるのだから、早め早めにいろんなことを気をつけましょう、ということを啓蒙する内容です。

もうじきたしか四十五歳になる夫にこれからでもいいから、推理小説を読んでもらうことで、小さなことや大きなことに気づいたり、観察したり、それを保留してぐっと保ちつつさらなる気づきと観察を続けて、いろんなことをつなぎあわせた上で、これはこういうことなんじゃないだろうかと予想したり確認したり、ということを、妻の健康管理に活かすことができるような方向で訓練してもらえるのではないだろうか、と思ってみたりもしたのですが、よく考えたら、推理小説も、そんなことまで期待されてもなあ、そんなことまで知らないよ、だよねえ、と思いました。

夫の名誉のために一応書いておきますと、気づいたり、観察したり、これはこういうことなんじゃないだろうかと予想したり確認したり、ということを、夫は夫なりにちゃんとできます、たぶん。将棋や囲碁の対戦においてや、勤務先での仕事を行う上でや、自動車やバイクを運転するのに必要な部分においては、ちゃんと。でも、将棋や囲碁をする夫が、ちょくちょく「何か目に見えない壁が定期的に俺の上達を阻む気がする。負けが混む波のときの背景や謎が解ければ、自分はもっと上達するのではないだろうか」と言うのは、やはり、もしかすると、推理小説での訓練不足が影響してるのかもしれません。

これまでは、夫から、囲碁における自分の不調の波に関する相談を受けるたびに、「人生とは、成長とは、飛躍とは、解脱とは、そういう波を繰り返して乗り越えてこそ、なしうるものなのじゃ」と応えていましたが、今度からは「とりあえず推理小説を何冊か読んでみたらどうかな」と勧めてみようかと思います。

ちなみに同じ犯罪捜査ドラマでも、「水戸黄門」に関しては、夫は最初から最後まで、わたしに何も問い詰めることなく、おとなしく視聴して、そのオチのスッキリさを見ては「このオチのスッキリとしたかんじが、アメリカの犯罪捜査ドラマにはないよな」と言います。彼が「オチのスッキリさ」にやや過剰にこだわる傾向は、わたしとの会話において、わたしが「今日ね、こんなことがあってね、おかしかったんだよ」と、ただ出来事を話したときに、「それで、そのオチは、なんなん?」と訊いてくることにも現れます。そのたびにわたしは「なぜ、君は、そこで、オチを求めるのだ。わたしのほうにオチを求めるのではなく、自分でこの会話を転がして自力でオチまで持って行け」と、イバラのコミュニケーション道を求めたりもしたものです。

いや、なんか、いろいろと、我が家の夫婦としての課題を少しばかり明らかに目の当たりにしたようなそんな気持ちにございます。