日本橋の電気屋さん

あの夏、白杖の人と」をお読みくださり、拍手とコメントをありがとうございます。

歩数カウントについては、カウントしてなさそうだと判断して声をかけても、実際にはすでにカウント中であるときもありますし、歩数以外の別の感覚を集中して作動中のこともあるので、「お手伝いしましょうか」と声をかけて、「いや、いいです」とそっけなく断られたとしても、せっかく声をかけたのに、と、不本意に感じないこと、という指導が、テキストにあったような気がします。

慣れるまでは、見極めや見定めは難しく、声をかけても必要とされない、ということもあるでしょうけれど、それはそれで、そうですか、と終了にして、また別の方には臆することなく声をかけてゆくことでだんだんと慣れていってください、という指導もあったような。

誰かの好意に対して、丁寧に「ありがとうございます。でも結構です。お気持ちに感謝します」と応えられる場合もあるでしょうが、なにか別のことに集中しているときや、疲れているときや、お腹がすいているときなどは、そっけなくなりがちなものです。

わたし自身、体調次第で、態度や言動の在り方も考え方や感じ方すらもずいぶんと異なります。また、態度や言動の在り方や考え方や感じ方次第で、体調も当然異なってきます。

自分に余裕があんまりないときが生きていればままあるように、他人にもそれは当然あるものでしょうから、他の人が余裕が十分でない態度をとることがあったとしても、それでいちいちこころを痛めない程度の余裕と丈夫さは常備したいものだと思います。


ところで、大阪の日本橋(にっぽんばし)といえば、あの電気街。日本橋というその地名を思い出すだけで、あの景観と、いろんな音と、人の多さと、店員さんとお客さんのある種の「芸」のような駆け引きなどが脳裏に鮮やかに蘇ります。

日本橋のパソコン屋さんで、目が不自由な方を見かけたら、製品情報音読などのお手伝いをしましょうか、と声をおかけになるとのこと、なんだかとてもこころ強い気持ちです。そのお店やその業界の店員さんは店員さんで、もちろん頼りになるのですけれど、店員という立場上どうしても、そのときどきの特定の方向性で商品説明や案内を行う部分がありますから、店員ではない立場の人のフラットなサポート、販売や利益を意識しないサポートを得られることで、その人が求める情報によりいっそうアクセスしやすくなることもあるだろうなあ。お客同士として、そういうタイミングに居合わせるのも、きっと何かのご縁なのだろうなあ、と思います。

わたしたち目が見える者は、多くの場合、指先の感覚も聴覚もその他の感覚もおそらく、目が見えない人や見えづらい人たちほどには発達していません。今、こうして入力しているキーボードの、JとFのところにある小さな突起すら、指先でいちいち感知することなく入力を繰り返しています。わたしの場合は点字を読み書きするときにも、指先の感覚ではなく、視覚での確認が中心です。

視覚に頼らない別の感覚でパソコンを利用するのは、どんなふうにするのか、目が見える者にとっては「はなれわざ」としか思えないような使い方がいろいろあるのだろうなあ、と、ほんとうに興味深いです。

そして、わたしの場合は視覚に頼ったパソコンの使い方もその大半は未知なのですけれど、今は自分が知らないいろいろな使い方が既に存在しているということは、もしも自分がなんらかの事情で、視覚以外の感覚(視覚に限定する必要はないのですが、今回は白杖ネタでしたので、便宜的に。実際は「現在機能しているもの以外あるいは以上の感覚」各種)を発達させて暮らす必要が生じたときには、すでにある程度確立された「視覚(特定の感覚)に頼らない使い方」に関する知恵や工夫を拝借して訓練を積み、きっと使いこなして便利さを享受することができるのだなあと思うと、なんとはなしに安心した気持ちになります。