レンジ茄子の存在意義

焼き茄子蒸し茄子」にメッセージをありがとうございます。

やはり焼き茄子は皮をつけたままじっくり焼いて皮をむいたのがお好きですか。私もです。祖母もです。

でもでもですね、たとえば、自分一人の食事だけれど、焼き茄子っぽいものが食べたいとき、自分ひとりの食事でも、自分のために地道に茄子を焼いて皮を剥いて食べる気概のある人はいいのです。けれど、私のように、ひとりだと、つい、なんというか、食のやる気が低下して、面倒くさいなあ、もういいかー、短時間でできるものにしちゃえ、となりがちなタイプの人間には、本当の焼き茄子ではないとしても、焼き茄子風のものを食べて身体に入れてやることができるレンジ茄子は、これはこれできっとありだと思うのです。

そのときに、自分の身体が食べたいと思うものというのは、だいたいなんらかで身体が求めているものであることが多いので、できるだけ叶えてやりたい。

身体が焼き茄子を求めるときには、ベーコンと茄子のパスタではなくて、焼き茄子を自分に食べさせたい。

しかし、作るのが面倒くさい、という心情との折り合いも必要、ということになったときに、レンジ茄子は、かなり身体に歩み寄っているといいますか、身体としても、むむ、これは、求めていたものそのものではないが、努力は認める、と判断しやすいところがあるかな、と。

みそ文では、鹿児島友人作の焼き茄子のことを蒸し茄子と呼びましたが、厳密にはレンジ茄子かな、と今になって思いました。

茄子を蒸し器で蒸したことはまだないのですが、それはそれでおいしいのかな。どうだろう。