とっさのひとこと

身悶えするよな精進を」にメッセージをくださりどうもありがとうございます。

二日目の料理における私の驚愕落胆にそこまで共感していただけると、みそ文であの話を書くためにずっとそこまでの行程での「うれしい」「たのしい」「きもちいい」を積み重ねて書いたことの、そして、積み重ねている間にはがっかりの気配を慎重に抜いておいたことの、甲斐があるというものです。

私が落胆したように、宿の方としても、おもてなししたくておもてなししたつもりがおもてなしになりそこねたことにはおそらくうなだれた気持ちになられただろうと思うのです。双方にとって残念な出来事ではありましたけれど、そこにはそれぞれがそれぞれに学習課題があったのね、ということなのだろうと思います。

そして今回みそ文で山陰紀行を書いてみて、この精進がっかりネタが最後にあることは秘した状態でそれ以前の話を書くと決めてそうしてみて気がついたのですが、一連の流れの一部に落胆したことがあったとしても、それに連動させてそこまでやその後の嬉しい気持ちや気持ちいい思いまで落胆色に染めるかどうかは自分で選べるのだなあ、ということにあらためて思い至りました。それはそれこれはこれ、とでもいうのでしょうか。どんなに残念なことがあってこころ痛んだとしても、それで他の本来嬉しかったはずのことまで残念色にくすませるかどうかは、意識して自分で選ぶことができるな、と。

自分ひとりの記憶として自分だけで抱えているとすべてが渾然一体となりやすく、ひとついやなことがあるとその旅全部がだいなしになったような気分になりかねないものですが、旅の行程を一個一個細かく分けて書いたことにより、自分の中で出来事と気持ちをひとつひとつ整理してお片付けすることができて、嫌な思いをことさらに必要以上に繰り返し再生しなくて済んだような気がしました。山陰紀行に限らず、これは他のことでも長期短期にかかわらず何かある程度連続性がある出来事に関しても、こういう切り取り方捉え方を意識することは、自分の不満は不満として、でも満足もきちんと満足として、同等に大切に取り扱う手法のひとつかもしれない、ことさらに不満を贔屓することなく不満も満足も平等に扱うとでもいうのでしょうか、なにかそういう類の技を具体的に垣間見たかもしれないな、と。

そして何より、まだ紀行の途中までの公開のみで、最後にがっかりネタがあることを知らない状態でそこまでの山陰紀行を読んでくださる方々が「よかったねえ」「たのしかったねえ」とうなづくようなお声をかけてくださるたびに、むふふふふ、よしよし、まだ誰にも最後のがっかりの片鱗には気づかれていないわ、この調子で書き進めて最後にずどーんと谷底に突き落とすというか、私と一緒に谷底に落ちちゃう人には落ちてもらうよ、おー、と画策したひとときは、なにか秘密のミッションに奔走するスパイのような気分でした。

それにしても夫のあの「ぼくは大丈夫なんですけどね」はなんなんでしょうねえ。我が家だけでなく他のご家庭でも似た状況があるとのことで、そしてそのたびに自分の身方は誰もいない気分になるとのことで、うんうんうんうんそうだよね、と心強く思いました。ただでさえ想定外の不本意な出来事でダメージを受けているところで夫がそう言うと「こいつ(私)がワガママなだけなんで、こいつさえ我慢すれば済むことなんで、大丈夫です気にせんといてください。いつでもどんなもてなしでもありがたく享受する旅人としての度量がないこいつの責任ですから。リクエスト?そんなものとんでもない、こいつはただただ出されたものを黙ってありがたく頂いとればいいんです」というような、私の個人的な事情や希望などとるに足らないものなのだとここぞとばかりに言っていると感じる方向で被害妄想は膨らみますもの。

夫がその言い回しを使うのは今回の大山に限ったことではなくてですね、本人の本意としては「自分の連れ(私)がお手数をおかけしてすみませんねえ、いろいろと手間をかけてくださってありがとうございます」という相手へのねぎらいとお礼を込めているのだろうなあ、とは思うのです。でも、ああいう状況でのとっさのひとこととしては、四十年以上の日本語ネイティブ話者歴といたしましては、もう少し磨き上げたいというか、夫には私の身内身方として私の心情に寄り添いつつなおかつ相手へのねぎらい感謝を込めた言い方を決めて、こんな時にはこのひとこと、と、さっと取り出してもらえばいいようにしておきたいものだと思いました。なにかよき言い回しが見つかるといいな。