まなざしを描く

拍手コメントをありがとうございます。

記憶の宝物のおかげで、大丈夫だと感じたり安心したりするのは、これまでもっぱら自分の人生に関してだったのですけれども、コメントをいただいて考えてみて、そういえば、そのときに時間を共有した人物の力や勇気への信頼感にも繋がっていることに気づきました。

そして、本当に、そういえば、なのですが、「こどもだまし」のモデルである友人と息子くん(友人の夫も)は、先日、長く暮らした関西から四国に引越しをしました。慣れない土地の生活環境に馴染むのには時間がかかるものですし、息子くんにとっては、「転校生」として新学期を始めることになるのですから、しばらくは、なんというか、友人家族にとっては、ちょっとした「がんばりどころ」なのかもしれません。

生きていればなにかと、しんどいことやめんどうくさいことやままならないことはあるもので、それでも総合的に判断して、あえてそういう選択肢を選ぶ判断を行う場合もふつうにあります。その結果、新たに何かを獲得したり辿り着いたりした喜びを得ることもあれば、ときには、しんどさやめんどうくささやままならなさで弱ったりすることもあります。けれど、それでも、それも含めて、私が彼らの力と勇気に対する絶大な信頼感をおぼえるのは、ともに過ごした「いくつものあのとき」に、私だけではなく彼らにもまた、生きる力と勇気のエネルギーが、ドクドクとなみなみと、充填されるその様を感じるからかもしれません。

充填されたエネルギーは、いつでもほぼ必ず一生有効で、そのときのことを思い出すだけで、安心と自信の存在を、鮮明に知ることができます。けれど、そのときのことを思い出すことすら思い出せなくなっているときには、だいたいなにかしらで、体やこころが、ぐずぐずというときですから、そういうときには、さっさと寝るに限ります。

他家の子どもに対する眼差しを描くこと(文章で書くこと)については、それが「他家の子どもに対する眼差し」だと意識したことがありませんでした。けれど、わざわざ上手だとお伝えくださったということは、もしかすると本当に上手なのかもしれないので、他家の子どもネタをもう少し意識して書いてみようかと思うようになりました。数稽古を重ねれば、もっと上手になれるのかもしれないですし、自分の記憶をより意識して鮮明に描くことで、記憶の宝物としての力も強化されるかもしれませんから。せっかくなので、いろいろと目論んでみようと思います。

こうしていろいろな「気づき」に導いてくださった拍手コメントに、感謝の大踊りを捧げつつ。