溺愛の可動域

「りららちゃんの指先」に拍手コメントくださりありがとうございます。

甥や姪や孫というのは、ぴったりの言葉がすぐに思いつかないのですが、がっぷりよつではない距離感でありつつも、その遺伝的形質の一部や、ふとした文化的な部分において、自分と共通のものが垣間見える瞬間がある、というあたりに、かわいくてたまらない感が波打つのではないだろうか、と考えています。

遺伝的継続性のある子(実子)、遺伝的継続性のない子(養子)ともに、多くの場合、生活を密にともにする養育者の文化が色濃く反映されますよね。その養育者自身が直に手渡した文化も含めて、子に対する愛情を抱くのは、それはそれでもちろんかなりの溺愛キャンペーン実施状態なのでしょう。が、それとは別に、養育者が橋渡しをしてくれた、自分と共通の文化の一部を見るとき生じる連帯感や深い愛着のようなものがあり、たとえ同居の祖父母やおじおばの立場であっても、なんでしょうねえ、間に別の「責任者的存在(親の立場の人物)」がいるというだけで、その連帯感や愛着に一呼吸のようなものが生じて、その一呼吸がよりいっそう余裕のある溺愛を育むのかな、と思ったり。同居性が低い場合には、その一呼吸が二呼吸や三呼吸に増え、さらに可動域の大きい溺愛に繋がるのかもしれません。

子の立場としていろんな関係性の人からいろんな種類の愛情を浴びることの力のようなものが、生き物にはきっとあって、また、いろんな関係性の相手に対して愛情を注いだり覚えたりすることの打ち震えるような快楽もまた、人のQOL(クオリティオブライフ、人生の質)を向上させる重要な要素であるのだろうなあ。

そういう要素は、血縁者同士という関係性において、より気軽に味わいやすいものなのかもしれませんが、血縁の濃淡とは別の縁(えにし)でその味わいを得る関係性というのもたしかに存在していて、そのどちらも、それぞれに、この世にあって、よかったなあ、ほんとうに。