認識するが嫌がらない

少し前のことになりますが、「合成洗剤とインフルエンザ」に拍手とコメントをくださり、ありがとうございました。

自分に生ずるなんらかの不快や不都合はこことつながっていたのかと気づくまでには、だいたいの場合、長い道のりがあります。

気づいたそのこと自体が、ほぼ常に変化していて捉えにくいということもありますし、自分の側の状態もやはり生き物として常時変化と変遷を抱えているため、常に同じではないあたりも、特定の関連性のあるなにかを捉える場合においての難しさを大きくします。

ただ、なんとなく思うのは、自分にとって不快や不都合の原因がなんであれ、やたらとそれを嫌がるのは、結局自分の力を弱くすることになって得策ではないようだな、ということです。

もちろん、自分にとって何かが不快であることや不便であることや不都合であることを認めて自覚することは、その後の展開を転がすためにも必要かつ有用なことだとは思うのですが、そして、その不快や不便や不都合に伴う不本意な感覚や感情を丁寧に取り扱うことは大切なことではあるのです。不快を不快と自覚することは人が人としての向上心を持つための基本要素ではあると思うのです。けれども、必要以上にそのことを「嫌がる」あるいは「ないことにしたがる」意思を強く持てば持つほど、そのことの本質に近づくまでの距離が遠くなり、そのことについてなすべきことをなすに至るまでの時間が大きくなるように感じます。

要は、四の五の言わずに、自分にとっての不都合を腹をくくって受け止めた上で、その原因や対策にも地に足をつけて向きあう、とでもいうのでしょうか、結局はそうしたほうが、急がば回れ、かもしれないけれど、自分にとって益のある状態に近づきやすいようだなあ、と、観察しているところです。

「いやだ、いやだ、こんなことなければいいのに」と、そればかりを繰り返し思って言葉にしてイメージを重ねることは、かえって、その自分にとって都合のよくない現実の出現度をよりいっそう高くするような、嫌がることにエネルギーを注ぎすぎてなすべき対応がおろそかになるような。

自分にとっての不快や不便や不都合がそこにあることも、それに伴う不本意感情があることも、認識はするけれど、いちいち嫌がることにエネルギーを費やさない、つまり、できるだけ淡々と平常心でそのことと向きあうことは、自分の特性、自分にとってあまり便利ではないことが多い特性と一生付き合っていく上において、非常に重要なコツでありミソであるような気がします。