願いごと研究家協会

すっかりお礼とお返事が遅くなりましたが、「フルート妖怪の参上と退散」に拍手コメントをくださり、ありがとうございました。

各自の持ち場でではありますが、願いごと研究家仲間としてともに精進に励んでいただけるとのこと、こころ強くて嬉しいです。

「なになにしたいなあ」「なになにできるようになりたいなあ」と言う人がいても、どれくらい本当にそうしたいかは、そして実際そうするかは、人それぞれに差があること、本当にそうだなあ、と思います。

私の場合は何かしたい自分の動機がかなり大きな時のみ「なになにしたい」「できるようになりたい」と言葉にする傾向が高いですが、夫の場合は動機が大きいわけでなくてもなんとなく気軽に言ってみる傾向があります。

何かをしたい、何かを上手になりたい、とは言っても、そこに地道な積み重ねの努力の部分を続けたいわけではない場合があるのだろうなあ、と思います。

楽して得する、というと語弊があるかもしれませんが、「地道な努力なしに簡単に上達できるならしたい」という意味合いで、「なになにしたい」「できるようになりたい」を使うケースもあるのかもしれません。

しかし、たいていの「現在できていないこと」「現在までしていないこと」は、それができるような工夫やしかけや努力を重ねてきてないからできていないという、あるいはそれほどの必要性を感じていないからしていないという、しごくまっとうな結果であることが多いですよね。そのできていないことをするには、そんなに簡単なちょっとしたコツのみで急にできるようになるものではないもので、いろんなご縁とご縁を紡いで、そのご縁の中で必要な訓練を繰り返して、上手にできないもどかしさの痛感もしつつ、なかなか上手な方向へ変化しないときの停滞感の中で踏ん張りつつ、どきどきしたりわくわくしたりはらはらしたりがっかりしたりというような感情も引き受けてこそ、なんですよねえ。

夫にフルートを買ったことで、そしてそのフルートは夫にはほとんど吹いてもらえないことがわかったことで、私の「なになにしたい」「できるようになりたい」とは異なる基準でその言葉を使う人がこんなに身近にいることに全身全霊で気づくことができたので、あれはあれで気づきのための投資としては適正価格だったのかもしれないと思います。

ところが、我が家にそのフルートがあるばかりに、その話を職場でちょっとしたばかりに、フルート奏者の同僚たちが「どうやらさんもフルート吹いたらいいのに」「ピアノじゃなくてフルート一緒に吹こうよ」と熱心に誘ってくれます。それはそれでありがたいのですけれど、まだフルートのピアノ伴奏が実現していない段階にいる私としては「まずは私のピアノでフルートの伴奏をしたい欲を満たしてから考えさせてくださいませ」とお願いしているところです。