幾重にも重ねる感覚

写真のことを思い出す」の中で日がな一日牛を眺めていた私にメッセージをくださりどうもありがとうございました。

小さな頃は世の中がどんなふうに見えていたのか今となっては思い出せないのですけれど、見るということも聴くということもにおいを感じるということも何かを触るということも、たしかめてたしかめてそしてまたさらにたしかめるように幾重にも感覚を重ねていたような気がします。

今はまた別の意味で、短期記憶がすぐにおぼろげになるものですから、何度も同じことを確認したり思い出して忘れていたことに驚いたりと、幾重にも感覚を重ねる日々となりました。

でもよく考えてみると、大学卒業後間もない頃も、仕事中に「はて、私はここに何をしに来たのだったのかしら」と思い出せなくなることがあり、そんなときにはもといた場所に今一度立ち戻り、初心にかえってみていました。そうするとすぐに思い出せることもあれば、そのまましばらく思い出せずしばらく経ってから突如思い出すなどということはよくあることでした。もちろんそのまま思い出せないままのことも。

こういうことを思い出すと、若いころの自分は今の自分よりももっと優秀だった幻想に過剰にとらわれることなく、当時は当時で今は今でその時々の自分を地道に積み重ねるだけなのねえ、と、なんとなく新たな気持ちになります。

幼い頃の私には存分に牛を眺めて牛小屋のにおいを堪能する機会と時間がありました。現代の子らはどこで何をどんなふうに存分に堪能する機会と時間を持つのだろう。世の子どもたちのそして私も含めたおとなたちの幾重にも感覚を重ねるひとときひとときが、ともに豊かなものであるといいなあ。