麦茶と箱膳

ひと夏の麦茶ポット」にコメントをくださり、また過去においてもみそ文を読んでくださっていたとのこと、重ねてお礼申し上げます。私の日記の書き方は「続けている」というのに相当するかどうかというと微妙な気もいたしますが、我が家で夫婦で年賀状版画を作成するのが年一回であることを思うとあれも「続いている」うちに入るとすると月に一回から数回の日記を書くのも続けていること続いていることのうちなのかもしれません。

麦茶ポットの洗浄、細菌感染予防のことを思えばそれはもちろん洗うほうがいいとは思うのです。ただ、少し前の時代までは箱膳で各自の食器を保管して食事を行い、お茶碗にはご飯、お椀にはお味噌汁、その他の器にはお漬物や煮物焼き物などの一部が付着していたはずですが、箱膳時代の人々はそれらの食器を毎回水洗いするわけではなく、お茶と漬物でゆすぎぬぐう程度で毎日毎度の食事を行いその食器はそのまま箱のなかに片付け、ときどき何日かにあるいはもっとたまに一度まとめて洗い天日に干してまた箱に片付けては食事に用いていたことを思うと、もちろん昔は早逝するひとも多かったわけですが、それでもそれで大きくなり子孫繁栄していたということは、人間は思ったよりも丈夫にできていて、丈夫な個体にとっては麦茶単品ごときでそんなに毎回容器を洗わなくてもどうってことないのかもしれないとも思います。

しかし私はどちらかというとあんまり丈夫な個体ではないので、生きている間の安全や安寧のためには食器関係のものはこまめに洗ったほうがいいんだろうな、という気がかなりいたしますのでそうして生きてゆくようにございます。

苗字と屋号

お礼とお返事がすっかり遅くなりましてございますが、2月には「切妻屋根はゲイブルズ」にコメントをくださりありがとうございました。

グリンゲイブルズは家の色形の特徴ですが、たしかに日本でも「だれだれさんち」と苗字で呼ぶのではなくて大きな松の木のあるお家を「一本松の家」と呼んだり一昔前だと苗字とは別の屋号などで呼んだりするケースがあったように思います。なにかこう苗字で呼ぶのとは別の愛着や存在に対する肯定のようなものがその呼び名にはあるのかなあ。

思えば去年の今頃は連続テレビ小説花子とアン』の視聴に忙しく、一日に七回くらいは繰り返し録画を見ては美術や衣装の微細なところまで堪能していたものですから、たいそう疲労困憊気味でありましたけれど、今は穏やかな毎日です。

我が家では夫がわりとだらだらと見るでもないテレビをつけて放置していることがときにあり(場合によってはそのまま別室に行って数十分以上いなくなることもある)、賑やかだったり騒がしかったりするテレビの音声や構成が苦手な私は「見てないときは音を消して」「見てないなら消して」と言うことがよくあります。テレビに関しては「見るなら見る、見ないなら見ない」スタイルを好む私としては彼との共同生活には折り合いが必要で、もちろん彼のほうとしてもテレビに限らずいろんなところで私と暮らす上での折り合いを大量につけてくれているのだろうとは思うのですけど、私みたいに「見るとなったら録画を何度も何度も何度もしつこく見る」というテレビの見方は「見るなら見る、見ないなら見ない」には当てはまってはいるとはいえ、やはりなにごとも加減というものがだいじで、「見るなら見る、見ないなら見ない、見るにしても節度をもって、見ないのは全然見なくてもまあかまわないといえばかまわないかも」を信条に生きてゆこうと思うことでありました。

麦茶と珈琲

ひと夏の麦茶ポット」に押し葉メッセージをくださりありがとうございます。

そうか、コーヒーメーカーのあのコーヒーをいれるポットももしかしたら毎回は洗っていないご家庭があるかもしれないのですね。

たしかにコーヒーメーカーでいれるのは毎回コーヒーだけとはいえ、コーヒー豆をフィルターペーパーに入れて通過させるフィルター部分にしてもポット部分にしてもコーヒーが付着するわけですから洗いたい気はいたしますが、そうか、そうか、そうか。

夫は独身の頃会社の寮でコーヒーメーカーを使っていたらしいのですが、それでレギュラーコーヒーをいれると使用後のフィルターやポットを洗うお世話が面倒なため、コーヒーメーカーは湯沸かしポットとして用いていたと聞きました。コーヒーメーカーに注いだ水が加熱されゆっくり時間をかけておりてきたお湯がポットにたまったのを見計らってそのお湯をコーヒーカップに先に入れたインスタントコーヒーの顆粒に注いで溶かして飲んでいたのだとか。こうすればコーヒーメーカーの全ての部分が水とお湯にしか触れないので、フィルター部分は常にポット上部に設置したままでポット部分のみ水を新しく入れるときに軽くゆすいで洗っては新しい水を汲んでくるという方式で使っていたのだそうです。

コーヒーメーカーを持っているのにたった一杯のインスタントコーヒーのために湯沸かしポットを買うのも自室の外に出て寮の給湯器の熱湯をもらってくるのもいやだったのだそうです。

しかしだったらなぜ彼はコーヒーメーカーを導入したのだろうか。自分で使ってみるまでそれほどのお世話が必要な道具だということを知らなかったのだろうか。

それとも誰かからのあるいは何かのいただきものでコーヒーメーカーをもらって使ってみたものの自分で使うのはむいていないなと思った経緯があったのだろうか。

ああ、そういえば、私は今は麦茶ではなくて通年でなたまめ茶と加賀棒茶をブレンドしたものを急須でいれて熱いのや室温で冷めてぬるくなったのを好んで飲んでいるのですが、その急須をですね、冬場の寒い時期にお茶を飲み干したあとの急須を毎回しっかり洗わずに急須の中の茶こし部分の茶殻を捨てて茶こしをさあっとゆすいだだけでまた次の棒茶の茎となたまめ茶ティーバッグをいれてお湯を注いで飲んでいたことがあったんですね。そうは言ってもその日と翌日とくらいで三日目にはいやもうやっぱり洗おうよと思ってスポンジ洗いののち食洗機で洗ってその間はもうひとつの別の急須で同じお茶をいれて飲んでいたんです。家族の誰かに飲ませるわけでもなく私一人だけが飲むお茶のことなのでそれでもいいじゃんねくらいの気持ちで。そうしたところ、それと関係あるのかないのかは不明ではあるのですが、しばらくした頃に食あたりっぽい症状に見舞われてたいへん苦しい思いをしまして、そのときに「やっぱり急須はとりあえず毎日洗って新しいものと取り替えよう」と決意したのでありました。

道楽合戦

オマージュ練習中につき」にくださったメッセージをうふふとうれしく読みました、ありがとうございます。

メッセージに「なるほど合戦」と書いてあったのを見て、そうか、自覚してはいなかったけれど、あれは「なるほど合戦」だったのか、と得心いたしました。

常日頃からいついかなるときも「たいへん合戦」は控えるべしと肝に銘じているのですが、「なるほど合戦」はまあいいことにしよう、そうしよう。

「たいへん合戦」というのは、相手よりも自分のほうがたいへんなのだと言い募り合う合戦です。この合戦は夫婦間に限らずいろんなところでその出現を見ることができますが、一見「たいへん」には見えないようなことでも「そんなん言うたらうちなんかもっと」というようなパターンで進行するケースもあります。

夫はドラマは照明よりも音楽よりも美術よりも音響よりもストーリー(脚本)と俳優さんの演技を重要視して見るタイプで、夫はどちらかというとそれこそが王道だと思っているらしく、私のような視聴の仕方に対しては「お客さん、見てほしいのはそことちがうんですけど」と何度か言います。

それなのにそんな部分を、ドラマ視聴に関する「感受性のオプションパーツが多い」、と表現していただけると、そうかー、そうなのだー、今度から夫にもそう言おうー、と、拳を握る気持ちになります。

しかしながらこういう視聴の仕方ではどうしても数はこなせません。かといって質が高いかというとそれともまたちがうような、ただただ己の道楽街道をひた走る、おそらくそんなかんじです。

夫の山歩きも「趣味」といえば「趣味」なのかもしれませんが、やはりあれは「道楽」なのではないかと思います。

「趣味」と「道楽」がどうちがうかというと、はてさてどうちがうのかな、ではあるのですけれど、なんとなく「趣味」に比べると「道楽」のほうが脳内麻薬の分泌量が多いような、いわゆる「色ボケじじい」に近いなにかがあるような、そんな気がいたします。

夫婦それぞれが各自の道楽に身を委ね、ときおりこころからの「なるほど」や口先だけの「なるほど」で「なるほど合戦」を重ねてゆこうそうしよう。

きしめんとおっきりこみ

うどんときしめんは少しちがう」にコメントをくださりありがとうございます。

そうですか、初盤のところですでに「みそさん、みそさん、それはうどんなのでは」と心の声をかけてくださいましたか。きっときしめんを求めていた私の身体もあのとき全身で「おい、これ、きしめんじゃないよ、ほら、さわり心地がちがうでしょ」と訴えていたのであろうなあ、と思うことであります。

そうなのです、実際に日常で食する比率としてはきしめんよりも圧倒的にうどんの方が多いのですが、きしめんはうどんよりも食べた時の食感がつるりんぺろりんとしているのも好みなところです。

今回教えていただいた「おっきりこみ」というものを私は初めて知りまして、なにそれなにそれと思いつつ検索してみたところ、なるほど「ほうとう」に似ているような、きしめんよりもはるかに幅広だけど厚みはきしめんと同じく薄いように思える画像をたくさん見ることができました。

私は「ほうとう」にも詳しくないのですけれど、ほうとうの画像を見ると必ずかぼちゃが入っているのと味噌仕立てであることが特徴のように見受けられます。

一方「おっきりこみ」の画像を見るかぎりでは、かぼちゃの存在感はさほどなく、味噌味以外のおだしのものが多くあるように感じます。

そしてこの「おっきりこみ」は「おっきりこみ」としては知りませんでしたが、半年くらい前に一時期生協で何度か買って食べたことのある「ぺろっこうどん」という幅約3.5cm厚さ約1.5mm長さ約20cm程度(おぼろげな記憶の中での採寸です)の麺に見た目がとても似ていると思いました。

ぺろっこうどんは夏場の購入だったのでざるうどんぽくして食べたような、かけうどんのようにしても食べたかもしれないような、少なくとも煮込んではいないような(商品の外装には煮込んでもよいと書いてあった気がする)記憶があるのですが、あの「ぺろっこうどん」を現在我が家で流行中の豚みそちゃんこ鍋のスープで煮込むときっとおいしいだろうなあ。

「おっきりこみ」の説明には、うどんと異なりおっきりこみはその作成過程で塩を入れないと書いてありました。鍋に入れる前に茹でずに生麺をそのまま煮こむことにより打ち粉がだしにとけてトロミが出るのも特徴。また「ほうとう」や「うどん」に比べると粉を練る時に加える水の量が少ないのだとか。あと「おっきりこみ」はケの食べ物で「うどん」はハレの食べ物であった、とも。讃岐うどんのケにもハレにも対応する様に比べるとところ違えばうどんの在り方もちがうのねえ、と感心しています。

そして「ほうとう」は山梨県の食文化、「おっきりこみ」は群馬県の食文化。おそらくどちらも未体験の私としては両方とも興味津々です。せめてその麺だけでも私の行きつけのスーパーに越境に越境を重ねてやって来てくれるといいなあ、うちの豚みそちゃんこ鍋スープで煮込まれることがやぶさかでないのであればぜひとも我が家に来てもらい味見したいなあ。

眼鏡と時計とのど黒飴

ノドグロへの道」にコメントをいただいてからずいぶん時間が経ちまして、お礼とお返事がすっかり遅くなりましたが、ありがとうございました。

ノドグロとはまだ出会ったことがないけれど、ノドグロと聞くとのど黒飴を思い出し、のど黒飴を見るとノドグロを思い出す」というコメントをいただいてすぐにこれは朴(パク)さんのことを書きたいと思いました。

朴さんというのは私が二十代半ばの頃に韓国語を初めて生の先生について習ったときの先生です。それまでの数年はテレビ講座ラジオ講座の先生について習っておりましたので、テレビやラジオ越しでなく生身で対面する先生は朴さんが初めてでした。

お返事に朴さんのことを書こうと思い始めますと、朴さんの話があれもこれも浮かんできまして、どうにも収集がつかなくなり、これはちょっと本来お返事に書きたい部分だけをまとめられるくらいに落ち着いてから書きましょう、と思いまして日を置き待っておりました。

ノドグロとのど黒飴でなぜ朴さんかといいますと、朴さんの眼鏡と時計に似ているような気がしたからです。朴さんは日本語学習の過程で「眼鏡」と「時計」を同じ時期に同時に記憶したから(だとご本人は言っていた)なのか、「眼鏡」と言いたいところで「時計」と言い、「時計」と言うはずのところで「眼鏡」と言うことがありました。

たとえば「みそさんは時計がとても似合いますね」と言ってくださるものの私は腕時計はしていなくて、はて、私の時計とはと身の回りをキョロキョロとさがしていると「あ、間違えました、時計ではなく眼鏡でした、みそさんの眼鏡はみそさんにとてもよく似合っています」と訂正してくださるのでありました。

あるいは「ほら、あの、時計をしている男の人です」と、そこにはいない誰かのことを話題に持ちだして誰であるかを特定するための特徴を話すときにも「朴さん、それは時計ではなくてもしかして眼鏡?」と訊くと、「ああ、そうです、眼鏡でした。時計と眼鏡はいつも似ていますね」と言われることもありました。

朴さんご自身も自分が眼鏡と時計を頻繁に言い間違える癖があるということは自覚しておられて間違えるたびに「うわー、また間違ったー」と頭を抱え、眼鏡や時計の語彙が出てくるたびに「えーと、今のは眼鏡で合っている、かな、よし、だいじょうぶ」と確認しながら眼鏡と時計という語彙を使っておられました。

たしかに眼鏡屋さんと時計屋さんはなんとなく少し仲間な部分があるような気がしないでもありません。しかし、韓国語では「時計」は「シゲェ」、「眼鏡」は「アンギョン」と発音するのですが、朴さんは韓国語では時計と眼鏡を言い間違えることはありません。間違えるのは日本語のときだけです。「とけい」と「めがね」の三文字同士で似ているのが間違いやすさを増幅するのでしょうか。

朴さんの「時計」と「眼鏡」に比べると、「ノドグロ」と「のど黒飴」は「のどぐろ」という音が確実に重複しておりますので、食品の種類としてはまったく別のものであるとはいえ、連想するのもしごくまっとうなことのように思えてまいります。

そういえばノドグロは、私もスーパーの鮮魚コーナーではあまり見かけることがありません。私がよく利用するスーパーで見かけないだけであって、鮮魚や干物に力を入れているスーパーでは取り扱いがあるのかもしれませんが。

隣県の魚料理屋さんの一階の魚屋さんでノドグロを買う以外には、私は生協カタログの「小さいけどおいしい」と書いてある「ノドグロ(アカムツ)の干物」というのを買って焼いて食べます。

私は日本海生まれの瀬戸内育ちで現在はまた日本海暮らしをしているためこのノドグロのことをノドグロと呼ぶ文化にどっぷりはまっておりますが、他の地方では「アカムツ」と呼ばれることが多いのやもしれません。

ノドグロがなぜノドグロなのかというとそれは喉が黒いからでして、焼き魚にしたノドグロの頭部をバリバリと分解して食べるときにノドグロの口蓋を覗きこみつつつかんで開くたびに「ノドグロの喉は黒いなあ」と思います。ぜひノドグロ(アカムツ)と遭遇された折にはその喉の黒色を見てみてください。しかし魚として喉が黒いとどういうよいことがあるのでしょう、餌となる小魚が入ってきやすいなどのメリットがあるのだろうか。

ノドグロ白身魚ではあるのですが、たいへんに脂のりがよい魚で、旨味の種類としてはマグロのトロの仲間のような味わいです。でも白身魚なのでマグロや青魚に比べると消化がラクな種類の脂のように感じます。

朴さんについてはいろんなことを思い出しましたので、また何度かに分けてみそ文に書きたいです。

カラオケと岩盤浴

解任された幹事さん」に押し葉コメントをありがとう。

そういえば私はいつからカラオケに行っていないかなあ、カラオケをしていないかなあ。

だからきっとカラオケの機械の進化についてもおそらくほとんどなんにも知らないと思います。

歌うこと自体はどちらかというと好きなほうなのですが、文書き欲に比べるとカラオケ欲は格段に低いです。

こちらは降雪シーズン対策なのかお手頃価格のカラオケ施設がわりとたくさんあるように見受けられます。うちからは少し遠いのですが、岩盤浴付きカラオケというのがあるのを見つけています。問い合わせの電話でたずねてみたところ、岩盤浴としてはそれほど本気というわけではなく岩盤ベッドがカラオケ室内にありますよ、というかんじみたいで、オンドル(床暖房)ベッドっぽいものが室内にあるのかなあと想像しています。行きたいカラオケルームがあるとしたらそこかな。もしも夫が一緒に行ってくれたとしても彼は全然歌わないので、私はひとりで歌って、ひとりで岩盤ベッドに横になって(岩盤ベッドは夫も使うかも)あったまるのを繰り返すのかしら。それならひとりで行ってもいいようなものですが、ひとりでカラオケに行くのであればその時間はひとりで温泉に行くほうを選ぶんだろうなあ、私は。私が行く温泉には岩盤浴もついているし。

夫の勤務先では皆様が忘年会でカラオケで歌う希望があるということがわかりましたが、私の現在の勤務先ではそういえば食事会のときにカラオケはありません。今の職場はカラオケはありませんが毎回何かの楽器演奏とゲームがあります。私はまだ入社してからの年数が少ないのでよくわかりませんが、もしかするとカラオケ制止隊の活躍があるのだろうか。